●vol. 21 はじめに(旧)
わたしが洋裁を始めた95年からの5年間は、心身の調子をどんどん悪くしていった2年間と、治療を受けて回復して、前よりずっとタフになってしまった3年間とにまたがっている。
身体を壊すまでの私は、小説を書いていて、「書くこと=内面観察」と、「縫うこと=外面観察」が、相乗効果的にどんどん突き詰まってしまっていた。内側からと外側から「自分って何者なの?」という問いの繰り返しだったのだ。
ちょうど、サルがらっきょうをむくような突き詰め方だった。
そして、むいてむいて、最後の芯には、何も入っていなかった。ただ、カビがあるだけだった。黒い胞子の粉にまみれて、「スカ」と書いた紙が出てきたような気がした。
あーあーあ。こりゃひどい。
でも、それ見て、思った。私はこれを確認したくて、らっきょうをむいてたんだって。
自分には自我、というものが何もなくてただのカビだけ、っていうのはたしかにつらかったけど、問題が見えたことで逆にはればれした気分になった。
この5年間、読書&書き物&手作業生活をやっているあいだ、ある、一つのイメージが浮かびっぱなしになっていた。
それは……「レオナルド・ダ・ヴィンチの工房」。
大学生のとき、一般教養でとった物理の先生が教えてくれた。
「ダ・ヴィンチは人間の肉体を観察するために、死体を工房に持ち込んで、皮をはがして筋肉の流れなんかをスケッチしていた。当時は防腐剤なんかないから、すさまじい腐臭のたちこめるなかで作業していたんだ」
自分もまたあの頃、血のにおいや肉のにおいをぷんぷん感じながら作業をしていた。
ダ・ヴィンチのこの狂気じみた執念の根本になっていたのは、「人間の奥底って何なんだ!」っていう探求心だったような気がするんだけど、自分もそれが見たかったんだと思う。
たぶん、それは生きているあいだには一度は「見て」、そうじゃないと先に進めないものなんじゃないか。
私はJ・F・フェレやG・アルマーニが好きなんだけど、フェレは医者でアルマーニは建築家。何かを探り、発見し、組み立てるというプロセスが、彼らの作品からはにおうような気がしていた。
構築の中の真髄。
spiritっていうのは「霊」とも訳すんだけど、「真髄」とも訳す。
そうか、ISLの研究対象は「ソーイング」じゃなくて「石ともそのもの」だったのか!
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