●vol.19 まかないの服

 いったいいつの頃から「パリコレ」や「ミラノコレ」にチェックを入れるようになったのかよく覚えていないのだけれど、たぶん、大学4年の就職活動の際に、こうしたコレクションの情報だけを発信している雑誌社の存在を知ったときからだと思う。
 「あんな過激なもの、いったい誰が着るんだ?」と、毎年思いつつも、それ以来、毎年、その技術の粋に目を釘付けにされている。

 とにかく、コレクションというのはすごい。何しろ、一着の服をめぐって、すさまじいばかりの人と情熱とお金とエネルギーが動くのだ。一つのコレクションというのはたかだか20分ばかりなのだけれど(これでも、いくつかは見たことあるのです。マイナーばかりだけど)、この力の入り方というのは、映画を超えているのではないかと思わされる。

 ところが、これもいつの頃からか覚えていないのだが、コレクションのなかの、ある一つの服に、私はとても強い印象を受けるようになった。
 それは、数々の贅の尽くされた服でもなければ、斬新なカッティングの服でもない。ショーの最後に必ず出てくる、デザイナー自身が着ている服なのである。

 顧客に向けたコレクションが、毎シーズン、次から次へとめまぐるしく変わっていくのに、デザイナーが着ている服は、毎年、ほとんど変化がない。そのくせ、ご本人によく似合っている。いや、「似合う」という単純なことばを超えて、デザイナー自身の「スタイル」として確立している。
 森英恵といえば森英恵、GP.ゴルチェといえばGP.ゴルチェ、J.ガリアーノといえばJ.ガリアーノ、ヨージ・ヤマモトといえばヨージ・ヤマモト。すぐ、彼らの「姿」が服をその一部として思い浮かぶ。
 それを見ているうちに、私はこう思うようになったのだ。

「コレクションの服はいらないから、そっちの服を売ってくれ!」

 考えてみれば、デザイナーのライフスタイルというのは、私のライフスタイルと相当似ているのである。一日のうちで、腕をまくって作業することもあれば、お客さん相手に商談することもある。何時間もひきこもってひとりで考え込むこともある。そのときに、あれだけいつも同じ服で、動きやすそうで、しかも自分に似合っていたら、すごくラクそうだ。

 「ブルータス」のモード特集を見ていたら、ジョルジオ・アルマーニご本人さまのクローゼット、というのが取材されていて、彼は、シャツをほぼ同じ色形のもの20枚、セーターもほぼ同じ色形のものを20枚もっていて、それがていねいにクローゼットに並べてあった。
 どうも以前から納得いかなかったことなのだが、「客」であるところの我々には、あれだけ毎年違う服が提案されているのに、自分たちは、そのまさに「売り物」であるところの「モード」から離れて、自分のスタイルを貫いているのって、何か釈然としないのだ。
 なんだか、お客さんには農薬使った野菜を売っているのに、自家用には有機肥料で作った野菜を別に作って食べている農家の人みたいだ。

 こういうデザイナーたちの服を、私はひそかに「まかないの服」と呼ぶようになった。「まかない」というのは、本来は料理用語で、レストランで、調理人が自分たちの食事時間に作って食べる料理のことである。内輪の料理だから手間はかからない。しかし、彼らのこだわりをもって作るわけだから、めっぽううまい(らしい)。ウワサがウワサを呼んで客のあいだにも伝わり、そのお店の人気メニューになっているレシピもあるという。
 できれば、そういう服がほしい、と、私は思い始めた。
 そんなに凝っていなくて、飽きさせることがなく、毎日着ていて楽で、でももちろん品質はいい。そういう服はないものか。
 これが、私の服探求の原点になっているような気がする。

 最近、少しながら自分なりの「まかないの服」が作れるようになってきて、「でも」と私は思うようになってきた。
 森英恵が着ている服を私が着るわけにはいかない。JP.ゴルチェが着ている服を私が着るわけにはいかない。それを着れば私は森英恵になってしまい、JP.ゴルチェになってしまう。街で売っているブランドロゴの入った服(ないしはバッグ)でさえその人をブランド色に染めてしまうのに、彼ら、彼女たちの「ライフ」を表す服を私が着るわけにはいかないのだ。なぜなら、私と彼ら、彼女らは、違う「ライフ」の持ち主なのだから。
 だから、彼らの服をそのまま売ってもらって着るのは彼らに対して失礼だし、同時に、私自身に対しても失礼だ。私は、私自身の「ライフ」にあった服を作り出さなければならないのだろう。
 だいたい、私がある日突然森英恵さんみたいなプードル・ヘアにしたら、笑っちゃうでしょう?「個性」とはそういうものなのだ。「あなたと私で入れ替え不可」。それが個性というものなのだ。

 彼らがいつも同じ服装をしているのは、日々変わっていくファッションを作り出していくために、それと向かいあう自分は、視点を一定にした、「不動の存在」である必要があるからなのかもしれない。ちょうど、強いボールを繰り出すための「軸足」が、しっかりと固定されていなければならないように。
 それをするためにはものすごく強い自分の個性が必要で、それは、ちまたに溢れている「個性的な服」などというものでさえ表せないような強固なもの〜つまり「spirit」〜で、そのspiritを磨き上げるためには、ほんとうに人知れぬような、自己研鑽のための努力が必要だ。

 反対にいえば、「まかないの服」って、服から入るんじゃなくて、自分が何をすることによって、その「まかない服」が必要になってくるのかを考える必要がある。服でなく、生き方を考えることによって、後から服がついてくる。
 どうも私は、服のなかでも、いちばん難しく、奥深く、そして「生きる」ということの根幹にかかわる服にひかれてしまったらしい。
 そういう自分を、なんて面倒くさいやつだと思いつつ、結構好きであったりもするのだけれど。

 ところで、女性デザイナーの服というのは、比較的、「まかないの服」と「販売用の服」を分けていないような気がする。ソニア・リキエルも、島田順子も、アニエス.bも、ダナ・キャランも、ミウッチャ・プラダも、みな、自分の店で売っているような服を着ている。
 彼女たちの服には、「ワタシ、こんなまかないの服着ているんですけど、とっても着心地がいいからあなたにもお分けしますわ」みたいなところがある。
 彼女たちの服は、畑でとれた野菜を道ばたで100円箱に入れて入れて持っていくようになっている「産地直売」みたいなところがあるのかもしれない。もちろん、彼女たちの服は100円で買うことはできないのだけれど、そんなふうに考えていくと、うららかな田園風景の中、豆しぼりのてぬぐいを頭からかぶったソニアが、大根と一緒にニットを並べている姿が勝手にが思い浮かんでしまって、みょうにおかしい。  
(01.5.23)    

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