●vol.17 呼び名

 家でとっている有機野菜のセットについてくる「会員のお便り」で、次のような話題が盛り上がったことがあった。

 「娘のトイレット・トレーニングをしている最中なのだが、女の子の性器をどう呼んだらいいかわからない。『あそこをちゃんと拭きなさい』っていうのでは、いってはいけない場所を指しているようで気分が悪い。大切な場所だといってあげたいのに、これでは娘にも後ろ暗いイメージを与えてしまう。いったいどう呼んだらいいものか」。

 それに対して、多くの母親たちが、共感のことばを寄せていた。「わたしもずっとそう思っていたんです」。そして、年配の母親たちは、自分の地方で呼んでいる呼び名をいくつか紹介していた。新聞にも出ていたけど、「おちょんちょん」っていうらしいですね。

 いやーなるほど、と私は思ってしまった。私には子どもはいないけれど、もし、自分も同じ立場になったら、同じことを考えだろう。そして、同じように、どう呼んでいいかわからないだろう。これを最初に投書したお母さんは、とても勇気があると思った。

 問題は、こうした知恵を、親の世代がもっていないことだ。最初に投書したお母さんは、おそらく自分の母親に聞けなかったのだろうし、私の、母と祖母のことを考えてみても、「あそこ」とすらいえないような気がする。何しろ、ふたりとも「ガール」なのだ。

 ただ、この件に関しては、どこの家も、似たり寄ったりのものじゃないだろうか。「母から娘へめんめんと伝えられてきた子育ての知恵」なんて、全然ウソですね。とっても大切に伝えなければいけないものが伝わっていない、あるいは断絶してしまった。(「ボーイ」だった柳田国男が切り捨ててしまったという説がある)

  漢文では「おちょんちょん」は「玉門」という。これは美しくて正確なネーミングである。大切なものの入り口。門は砦ではないが、だからといって門がないわけでもない。誰でも出入り自由ではないが、砦ほど不信感に満ちてもいない。信頼があれば通す。

 で、話の本題に入る。我々……っていうのは女性のことだけれど、我々には性的アイデンティティを表すことばもなければ、生的アイデンティティ、つまり自分の存在を表すことばもないんですね。あそこは「あそこ」で、つまり実体がなくて、存在そのものは「ガール」でもなくて「オバサン」でもない。大変だ。息が詰まるはずだ。我々は自分で我々を表すことばをもっていないのだ!

 ガールは「門を通る人」を、相手が信頼できるかどうかで分けたりしない。できれば誰からも「通られたい」「通ることを望まれたい」と願っている。
 そうじゃないものに我々は(っていう言い方がずるいのなら、私は)なりたいと願う。つまり、門の鍵は自分で管理したいという願いだ。私たちはすでに自分で鍵を管理できるのだし、その責任を自分でもつこともできる。
 名前があろうとなかろうと、そういうものに、私はなりたい。

 我々を表す呼び名がないことは、実は幸せなことでもある。それは、我々を束ねる呼び名がないということだ。(ただ無視されてたからないだけなんだけど)

 男の人を見なさい。「男」と束ねられてしまっているために、しかも「男」を捨てられないために、なかなか大変な人生を送っている。

「わたしを名付けないで
 娘という名 妻という名
 重々しい母という名でしつらえた座に
 坐りきりにさせないでください わたしは風
 りんごの木と
 泉のありかを知っている風」 (新川和江「わたしを束ねないで」)


 私たちは、自分の呼び名を決める機会をもってる。
 「玉門」も「おちょんちょん」も、なんとなくバカバカしく聞こえてしまうぐらい、自分のことを自分だけを表すことばでいっぱいに満たしたいと願う。
 男の戦闘服である背広を着る機会を与えられなかった代わりに、たくさんの服のなかから、自分を表す服を選ぶ権利を剥奪されていない。

 私たちは、それを探して、今日も彷徨う。  

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