●vol.16 「脱・ガール」それから

 前回のコラム「中年宣言」をアップした後、上野千鶴子さんが、次のような発言をしているのを読んだ。

「フェミニズムは『オバサンのススメ』をやってるようなものなんですよ。『早くおりなはれ。楽になりまっせ』と言ってるつもりなんですが、なかなかそうはとってもらえないというか」(週刊朝日3月2日号、林真理子対談)

 これを読んで、「上野さーん、そういういい方やめてくれませんかねー」と、私は思ってしまった。だって、「早くオバサンになりなさい」っていわれて、なりたいと思う人、います? なんか、全然魅力ないじゃないですか。上野さんのいうことって影響力大きいんだから、気をつけてほしいよなー。

 そう思ってふと自分のHP見たら、自分も「中年宣言」とか書いているので、笑ってしまった。

 私は「オバサン」とか「中年」になりたかったわけではなくて、ただ、「ガール」であることをやめたかっただけなんだと思う。それは、「人に愛されることに飢えることを卒業する」、ということでもある。

 子どもの頃、「愛してもらう」のは、回りののおとなにやってもらう仕事だ。子どもは自分で愛もゴハンも供給できないから。でも、大人になってから愛するのは、自分でまかなう仕事なんだと思う。「成熟」って、そういうことなんだと思う。

 だから、「脱・ガール」した女を、「オバサン」っていうのは、なんか違うんじゃないかという気がする。
 なんで人が「オバサン」呼ばわりされるのを嫌うかっていったら、「オバサン」って、何か「捨ててる」感じがするからじゃないだろうか。捨てたものが、「他人の評価に怯えること」だとしたら、それはステキだと思うけれど、私がもつ「オバサン」のイメージは、「自分を大切にすることすら捨ててしまっている」というものだ。あるいは、「他人(いわゆる世間様)にどう見られるかに踊らされている」というものだ。子どもの学歴ばかり気にするオバサンって、そうじゃないですか。

 ってことは、「オバサン」は他人の愛に飢えているという点で、実は「ガール」なのだ。オバサンはガールで、ガールはオバサンなのだと思う。繁華街のガールたちのお行儀の悪さといったら、オバサン並でしょ。デパートの試食販売とか。

 ガールでもなければオバサンでもない、ただふつうの「女」でいたいってことなんですけど。でもその位置にいようとするのは、「2001年宇宙の旅」をするようなものである。は理論的にありえる存在なんだけど、現実に遭遇したことがない。だから、イメージがもてない。

 *「脱・ガール」でいようとすることって、ときどき、「天動説を疑わない人の前で地動説をとなえること」 のような雰囲気を感じることがある。相手は別に攻撃してきたりはしない。攻撃さえしない。「空じゃなくて地球が動くんだ!」ということより、「動いているのは空なんだろうか? それとも地球なんだろうか?」そもそもその疑問をもつということが奇異に映るのではないか。
 天動説を信じている人は、バカじゃあないと思う。なぜなら、天動説でも90%のことは説明がつくからだ。90%のことがあっていれば、なんとかその枠にはまって生きていける。**「枠から落ちたら行き場はない」という恐怖と隣り合わせではあるにせよ。**
 天動説では自分の存在に承認を出せないと感じた者だけが、必要に迫られて、新たな選択肢を探し始める。
 人はこうして「異端」になる。

 女性を「ガール」から「ウーマン」に呼び替えたジョン・レノンなんて、あっというまに射ち殺されてしまった。彼を撃ったのはレノンが女を「ガール」扱いしていた時代からのファンだった。
 「ガール」から「ウーマン」への宗旨替えは、テロの対象たりえるのだ。

 じゃあ、いったい、どこに「ウーマン」はいるのか? 
 我々は、「ウーマン」になるために、どこを見たらいいんだ?* 

 それはたぶん、「自分」なんだろうと思う。

 「みんな、私を見てマネをしなさい!」っていってんじゃないよ。それぞれが自分を見ましょう、っていうハナシである。

 禅の教えは「脚下照顧」といった。釈迦は「仏教とはあなたを映す鏡を授けることだ」といった。花の子ルンルンはお家に帰った。ただし、みんなじたばたと旅をした後に、だ。お釈迦様なんて、拒食症で骨まで浮き出ちゃったんだから。

 オノ・ヨーコのエッセイ集のタイトルは「ただの私」という。オノ・ヨーコは、私をはるかに上回る個性的な人だと思うけれど、「自分をしっかりもてること」って、「悩みがない」ことじゃないんだと、私は学んだ。むしろ、自分が自分であるゆえの悩みをかわいがれることなんだと思う。だから、ヨーコのエッセイ集にも、すさまじいばかりの悩みが並べられる。あれを読んだとき、ほんとうに私はホッとしたものだ。

 **ときどき、「この人はいったい何をいっているんだ?」という」視線を感じることはある。でもその奇異なものを見る視線が、20年前に自分がオノ・ヨーコに向けたのと全く同じものであると感じるとき、私は、むしろ、ほっとする。だったら、私も間違ってないんじゃないか。そう思う。そして、ちょっとだけ、心の中で詫びる。「オノ・ヨーコ様、ゴメンナサイ」。**

 悩みを消すいい方法は、悩みが消えるまで一緒にいることだと思う。「これは、私が私である証拠」と思えたらしめたものだろう。
 ガールから飛躍する瞬間があるとしたら、そのときだと思う。  

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