●vol.13 ユニクロと作務衣と赤毛のアン

 ついにユニクロで服を買った! 日常着がまるでなくなってしまったので、コーデュロイのストレッチのパンツとセーター代わりに着られるフリース。色はライトイエロー。ジャストサイズで着たかったのでサイズはXS。
 パンツはできれば買わずに作りたいと思っていたところだったけど、今シーズンはとても無理と判断して、決断した。

 着てみたらすこぶる具合がよい。パンツは暖かいし、動きやすいし、何よりいいのはフリースの袖が長くなくて、腕の短い私でも袖を折らなくてすむこと。これは仕事しやすい。何を着ているか忘れて没頭できる。
 ソウワーとしてはこういうのをある意味怖れていたのかもしれないけど(?)、これだったら断然作るよりラクチンって思ってしまいそう。いや、すでに思っている。

「流行通信」だったかと思うけど、まえに、「ユニクロはファッションなのか?」って特集をやってた。もちろん、ユニクロはファッションではないだろうと思う。でも、WEARがすべてファッションじゃなきゃいけない、っていうこともないはず。
 むしろ、私のように、「ファッショナブルである必要はない、でも、『衣生活』は大切にしたい」と思っている人は、多かったんじゃないか。

 たとえば、私以外にも、「自分が何を着ているかなんて忘れて仕事に没頭したい」と思う人は数々いるだろう。育児中のお母さんなんてその例じゃないだろうか。
 小さな頃はとにかく赤ちゃんに集中していたいだろう。何を着るかなんて、かかずらわりたくないんじゃないかと思う。でも、だからといって、着ているシャツのゴムがだらんとすぐ伸びてしまうような服だったら、それは決して「気持ちのよいこと」とはいえないのではないだろうか。本当は育児だって立派な仕事なのに、なんだか、「育児」という仕事がみじめなものに感じてしまうのではないか。

 私は「SOHO」という言葉が話題になる前から「自宅で仕事をする」ことを目標に少しずつ計画をたててきたので、「家で気持ちよく仕事できる服がない」っていうことを、会社をやめた直後から痛感させられていた。家でラクチンで、家事もしやすく、思い立ったらその格好のまま電車に乗って図書館へ、というような服を探していたのだが、これが見事にない。ファッショナブルであることもまた邪魔だったけど、でもやっぱりゴムがすぐよれよれになる服はイヤだった。だったら自分で作れないか、と思ったのが、そもそも服を作ろうと思った動機の一つだった。

 それで思いだしたのだけれど、洋裁を始めた頃、いちばん最初に買った型紙(「ジャノメソーイングパターン」)は「作務衣」だった。毎日あれだけで暮らせたらどんなにいいだろう、と、つい思ってしまったのだ。さすがにちょっと人生捨てている気がして、パンツだけ作ってやめてしまったが(尼になるにはちょっと生臭すぎるらしい)。
 でも「ユニクロ」の服って、まさに「仕事着(ワークウェア)」、つまり「作務衣」なんだよね。学校での勉強とか、家事とか、趣味の充実とか、ボランティアとか、自主的な研究とか、広い意味でのワーク。

 人生を「ハレ」と「ケ」で分けると、この「ワーク」の概念は成り立たなくなる。日頃は質素倹約をむねとして、自分を無理に抑え込んで農作業をして、お祭りのときだけ赤いおべべで飲んで唄って発散する……っていうのが、「ハレ」と「ケ」の発想だ。これは、「仕事」というのが、「しょうがないからガマンしてやるもの」という考えのもとに成り立っている。そういう作業のために、着ていて好きになれる服を探そうとは思わなくても不思議はない。
 でも、自分が好きで、自主的に選んで、愛してやるワークのためには、それなりのウェアが欲しい。「自ら進んで」ストイックになれるウェアが。

『赤毛のアン』のなかで、アンが「袖のふくらんだ服」にあこがれる有名なシーンがあるよね。マリラは実用一点張りの人間で、「袖のふくらんだ服」を着ることに何のメリットがあるのかまったく理解できない。でもアンにとってそれは「女の子らしさ」っていうよりむしろ「自己実現」の象徴みたいなものだった。「自分の着たい服を選ぶ」ということ、それから、「無駄遣い」つまり消費をすることで自分を大切にするという二つの自己決定権を、アンは行使することにあこがれる。だから、マシュウからその服を贈られたときの喜びに、私たちはとても共感することができるのだと思う。

 でも、それから百年がすぎて、今の私は、「あえて袖のふくらんでいない服」を探していたのだ。世の中には「袖のふくらんだ服」は手を変え品を変えあらゆるバリエーションが揃いすぎているのに、マリラが作ったような、「何の飾りもないけど働くのにじゃまにならない服」というのは本当に見あたらなかった。
 そこへぽこっと「ユニクロ」が出てきたのである。
 しかも、「ワークウェア」にふさわしいお値段で。
 
 田口ランディがエッセイのタイトルにつけたような、「もう消費すら快楽じゃない」女の子が世に出現するなんてことを、赤毛のアンは想像すらできなかっただろうけれども。

 もっとも、ユニクロでお買い物しているすべての人が、「消費すら快楽じゃない」と思っているとは私にも思えないけれども。(実はけっこう消費衝動に火がついて買っている人も多いだろうと私は読んでいる)
(01.1.9)

vol.14 へ   一つ戻る  コラム集の目次へ   「ISL」トップへ