●宇野千代さんに関する補足

 11/11に「ソーイングライター」をアップしたところ、文学に関するお仕事をなさっているという方からメールをいただきました。要点は次のようなものです。


●宇野千代さんは、自分で着物の「デザイン」はしていない。
●ある染織家(それなりに地位を確立している人。某大学教授)の作業場に彼女が来て、彼が作った型紙のなかから選んで商品化したものである。
●以上はこの染織家本人から聞いた話である。

 わたしはあわてて「ソーイングライター」にアップした資料『宇野千代 わたしの作ったきもの』を見てみました。すると、そこには次のように書いてありました。

「そのうち、それだけでは、『きもの読本』としての独創性がない、ということに気がついたのです。自分のデザインしたものを使いたいと思い、その頃、東京で随一といわれた長谷田桐翠という手描きの模様師のところに通い、一緒に訪問着を作る仕事を始めたのです。こうして、一枚から二枚へ、そして百枚へと私のデザインした着物ができていったのです。」(68ページ)

 これだと、なんとなく、長谷田桐翠という人をたてている? ような気もします。そこでわたしは、メールをくださった方に、その染織家とは長谷田氏でしょうかと問い合わせました。しかし、違うそうです。ここにまったく出てこない第三の男が、どうやらいるらしい。

『わたしの作ったきもの』には、次のようにも書いてあります。

「男と女が一緒に暮らしている間には、根本的とも思われる影響をうけるものです。東郷と別れて二十年も経ったとき、私のきものを見て『まあ、東郷青児さんの絵に似てるわねえ』といった人がいました。東郷の配色や工芸的な絵の感じが私のつくるきもののどこかにひそんでいることなのでしょう」(67ページ)

 これがわたしにとってはリアリティのある話だったのですが、もしこの方のいう通りなら、この話も相当マユツバということになります。宇野さんは恋に生き、相手に心酔した人ですから、この感想が、よほど嬉しかったのかもしれません。
 
 メールをくださった方は、「宇野千代のさくらのきもの」が大好きだったので、この話を聞いたときは、かえって落胆が大きかったと書かれていました。なんか、その気持ちは分かる気がします。

 これ以上のことを、今のわたしの状況では追求しようがないのですが、今回のことを経て、わたしが思っているのは、以下の点です。

1,宇野さんは、もしかしたら「デザイナー」ではなくて、「プロデューサー」、ないしは「スタイリスト」だったのかもしれない。当時はこのような職業はありませんでしたから、もし、あれば、小室哲哉やつんくのようなポジションをとっていたかもしれない。

2,すてきだとは思うんだけど、宇野千代きものって、高い。あと、何かがうさんくさい。例えば、巻末に書いてあることばは、こう。 「幸せを呼ぶ、宇野千代きもの。どうぞ、あなたも一度袖をお通しくださいませ……」。なんか宗教臭くないです? すてきだと思いつつわたしが最終的にわたしの財布のひもをゆるめなかったのは、この一言だと思う。 

3,インターネットって、すごい。一度アップしてしまうと、たちまちこういう情報が寄せられる。事実をつきとめられないにしても、ただ単純に「宇野千代さんのデザイン」と信じ込んでいたのとは、世界観が変わる。わたしは、ノート7をアップしてよかったと思う。
 こういうのってプロセスが大事だと思うので、前の文章を削除するんじゃなくてこっちを追加することにしました。

4,これは前から知っていたことだけど、きもの業界というのは著作権や意匠権がつけにくい世界で、こういう争いが結構耐えない。「青海波」とか、「亀甲」なんて、伝統文様になりすぎて、著作権のつけようがないため。そのため、京都でも対応に苦慮しているらしい(日経か朝日で読んだ)

5,ノート7で紹介したライターのなかで、わたしは千葉さんや向田さんの作品は好きだが、宇野千代の作品は嫌い。(橋本さんのはあまり読んでいない)。どうもあの作品への嫌悪感ときものへの好感が一致しない。事実認定から逃げるようなコラムになってしまったが、自分がこの感覚をもっていることだけは確か。

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