●vol.摂飾障害

  サイトを開いて一ヶ月。ここをこうしよう、このことを書こうなんて考えているうちに、最近、どうも、「自分はこれではないか?」と思う言葉が頭のなかにひらめいてしまって、離れない。
「摂飾障害」。
 ちょっと説明しておくと、本家「摂食障害」には「過食症」と「拒食症」がある。現象的には正反対に見えるけど、自分の「食行動」とうまくつきあっていけないという点では根は同じである。ひとりで症状を交互に繰り返す人も多い。過去の暴力被害などによって、自分に対して無力感を感じている人が、自分の食行動や体型を唯一の自己コントロールの手段にしようとして始まる、というメカニズムが指摘されている。


 わたしは服を着ることが好きだ。っていうか、結構うるさい。会った人が何を着ているかだいたい覚えているし、どこかへ行くとき何を着ていくか考えるのが好きだし、服を買いに行っても小さなこだわりが気になってなかなか決められない(だから自分で作ろうなんて考えついてしまったんだけど)。
 でもその一方で、「あ〜衣生活なんてものにエネルギーを割かなくてすんだら、人生どんなにラクだろう」と、ずっと思っている。ここのところずっと、一昨年の冬に作ったウエストゴムのデニムパンツをはいていて、これは周囲の人(っていうかパートナー)に「もんぺみたい」といわれて、すこぶる評判が悪い。今日は、もらいものののフェラガモのツインニットを新品のまま、今日リサイクルブティックに売ってしまった。で、自分はというと、ディスカウントショップで買った500円のシャツに、10年前にヒースロー空港のバーゲンで買ったプリングル社のカシミアニット(ゴム編み部分が伸びてしまったので、裾と手首をカットし、フリーステープでトリミングしたもの。でも相当よれよれ)をしつこく着ている。日常生活では、汚れることを気にしなくてはいけないような服を着るはいっさいイヤなのだ。「決めてるとき」と「モッサモサのとき」の差が極端である。
 「服装的多重人格」ともいえるかもしれない。


 シーズンの始めになるとわたしは考える。「このシーズン、一枚も服を買わなかったらどんなにラクだろう」。そうすれば本ももっと変えるし、映画も見られる。処分しなければいけない服の量も減る。でも、これって、拒食症と同じで、絶対ムリなのよね。「これからいっさいモノを食べなくてすんだら、どんなにラクだろう。そうすればスタイルだっていいままだし、他のことにお金を使える」。なんて思っていると、やがて、すごい食欲が襲ってくるように、わたしに「予想外の飾欲」というものが襲ってくる。それで、つい、衝動買いしてしまったりする。失敗だったりすると目もあてられない。すごい自己嫌悪に襲われる。
 フリーライターの志を本気でたてて、そのための出費がかさむようになってからこの悪循環はひどくなってきたような気がする。なんだか、「こんな大それた望みをもっているんだから、他のところじゃよっぽど節約しなくちゃダメよ」と自分を縛っているような気がする。たしかにすごい高い本とか自費で買っているし、節約しなくちゃいけないんだけど、なんかちょっと、節約するところがズレてる。「服」を節制しようとして、「キレイにしたいわたし」の方を節制しちゃっていたような気がする。書くことと着ることは、相反するものではないはずなのに。


 今日、近所の、ダイエー系列の専門店街で、3900円のキルティングジャケットを買った。それを買ったことで、ちょっと自分が変わった気がした。今までだったらそんな店に立ち寄らなかったし(すごいブランドショップか、極端なディスカウントショップのどちらかが好きなのだ)、以前はどういうわけか「かわいい」と思うと「いや待てよ」と思ってひいてしまう癖があった。自分をしばりすぎているので、一度服を買うと後生大事にしすぎて、なかなかリタイアさせられない癖もあった。
 わたしが服を縫うことを始めたのは、「好きになれる日常着」を欲しいと思ったからだ。体型の問題もあって、自分のまわりにはそういう服がないような気がした。でも、ほんとうになかったのは、「服」じゃなくて自分の「考え方」だったみたい。ちょっとショックだけれど。

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