●vol.23 手作り服と既製服、再びの考察


 最近の既製服は安い、というのは、誰でも意識されられる事実だと思うけど、先日、ある資料を読んでいて、すごいデータを見つけてしまった。
 それは、ではいったい、昔の既製服はどれぐらい高かったのか、という数字である。『主婦の復権はあり得るか』(田中貴美子、鈴木由美子共著、社会思想社)という書物の中に、当時の物価と、その頃の主婦の役割が述べられている。
 それによると、昭和26、7年当時、著者の田中氏の父親は、三十過ぎの大企業のホワイトカラーだったが、その月給は8000円。それに対し、三歳児メリヤス用シャツは400円もしたというのである。今の状況に置き換えてみると、父親の月給が20万円なのに、おチビさんの下着が1万円という割合だ。しかも、子どもの肌着は、5枚も6枚もいるから、子どもの下着を5枚買ったら、給料の1/4が吹っ飛んでしまう計算だ。

「母は、サラシの生地から自分で仕立てた肌着を兄や私に着せた。とてもボタンホールなんかかがっていられない。甚平羽織のように前を打ち合わせにしてヒモをつけた実用的な肌着になった」
 と田中氏は書いているが、このくだりは、服を作ったことのある人ならかなり共感できる感覚だろう。手かがりなんて気が遠くなりそうだが、ミシンで開けるだけでも、ボタンホールって、けっこうな手間がかかるものだ。
 この頃の服地の値段は書いていないが、当時は、縫製に対して(機械にも、人件費にも)ものすごくお金がかかっていたので、服地そのものは安かったと思う。だからこそ、当時は服を手作りするのが当たり前だったのだ。

 話がちょっとずれるけど、家庭用ミシンの性能を評して、「雑巾が縫えればよい」というような表現が使われることがある。しかし、職業用ミシンや工業用ミシンといったパワーのある直線縫いミシンに触れてみると、いちばん縫い心地に差が出るのは、実は「雑巾」であることがわかる。分厚い布と、段差のある布の送りは、ミシンのパワーと切っても切り離せない。
 上記にあげたような昭和20年代、雑巾は、家で作らなければいけない大切なアイテムだった。クイックルワイパーなんてない時代なのだ。当時の「家庭用ミシン」に対するニーズは、雑巾を作ったり、リフォームしたりすることにあった。そうした作業をするのが「家庭での」役割だったからである。「流行の服」なんて作らない。そもそも「流行」という感覚がない。
 「昔のミシンはパワーが強くて良心的」という人がときどきいるが(その意見にまったく反対というわけではないが)、昔と今とでは「家庭用」ということばの意味、「家庭用」に求められるニーズというのがまったく違ってしまっているのである。
 経済的な問題に話を戻そう。現在、自家製の服は、安いのだろうか。たしかに材料費だけなら安い。自宅で服を作ると、材料費が1000円以下でできるものがたくさんある。自家製服の制作費は、一瞬、安く感じる。
 しかし、これは、自分の労働力を「アンペイド・ワーク」(=賃金の払われない労働)で計算した場合の値段である。主婦の労働というのは基本的にアンペイド・ワークだから、主婦の労働市場価値というのはゼロ円。ゼロ円の労働力が何時間作業しても、人件費はゼロ円のままだ。
 ところが、この主婦が、パートに出ることになったして、この女性の時給が800円とすると、この時点でこの女性には、「1時間あたり800円」という市場価値がつく。この時間を、パートに行かないで10時間使ってスカートを作ったとすると、この女性は、8000円分の労働力をつぎこんでこのスカートを作ったことになる。材料費の1000円を足すと、この服は、9000円の値段がついてしまうのだ。
 
 さて、田中貴美子氏は、次のように書く。
 昭和20年代の主婦は、家庭での必需品をすべて作り出さなければいけない厳しい労働者であった。それは与えられて動かすことのできない「宿命的役割」であり、男尊女卑の根強い風潮のなかで、徹底的な「裏方」に貢献しなければいけなかった。けれども、こうした自らがもつ生産性は、自分に対する評価を確実にあげたはずだ。「私はこれだけの貢献をしている。私はこれだけのことができる」、と。
 ところが昭和30年代に、家庭電化製品が入ってくるようになって、主婦の世界観は一変する。便利な家電の導入によって労働はたしかにラクになったが、同時に主婦の自己評価がいちじるしく下がってしまうのである。「わたしの存在って、いったい何なんだろう……」。外に出て市場価値を上げられる人はまだいいが、それができない人は出口がない。

 ここからは私の考察だが、そのエネルギーが手作り、とくにパッチワークに向いたとしても不思議はない。ここで、家庭用ミシンの位置づけが変わってくる。「実用の道具」から「趣味の道具」へと変わるのである。ただ、本質的な意味では、大きな変化はないのかもしれない。
「私はこれだけのことができる」。達成感というのは心の栄養だ。その栄養を供給する道具として、ミシンは今も昔も女性とともにある。
 一時、「パッチワーク依存症」という現象がマスメディアに取り上げられたことがあったが、それは確かに病的な行動かもしれないけれど、自己評価の欠落を感じた女性がすなおに手を伸ばした結果だとすれば、それはかえって健康的な反応だということもできるかもしれない。

 田中氏は、さらに興味深いことを書いている。

「昭和31年、小学校の入学式に私は、母親がミシンで縫った赤いジャンパースカートを身につけていた。それは周囲に見劣りのしない晴れ着であった。
 しかし小学校の2,3年になると、既成のサーキュラースカートが大流行する。これはドーナツ型に布地をはぎあわせて中の小さい円がウエストになるスカートで、並みの主婦の洋裁技術では手に負えないものであった。私も「もうクラスの子がみんな持ってるよ」という決まり文句を使ってサーキュラースカートを手に入れ、意気揚々と登校したものである。
 続いて、やはり家庭では作れないプリーツ加工のスカートや、胸にワッペンのついたブレザーコートの流行。母親の手が生む素朴な衣服はハレの場から追われ、女の子の憧れは既製服へと移ってしまった。(中略)和洋裁と編み物の技術をもった働き者の主婦も、既製品が家庭を征服する流れに飲み込まれざるをえなかったのである」


 電化製品の導入期は、日本の大量生産が稼働し始めた時期であり、つまりは既製服が家庭に入ってきた時期でもあった。私は今まで考えたことがなかったのだけれど、既製服というのは、基本的に、家庭服にはできないものを供給することで、その地位を築いてきたのだ。
 それに対抗しようと言うのだから、今、服を手作りしている人は、既成の製図を使う人であれ、自分で製図をおこす人であれ、すごいことをしていると思った方がいいのかもしれない。達成感を強く持つべきだ。

 さて、9000円のスカートはデパートで買えると書いたが、反対に、どうしても9000円では買えない服というのもたくさん出てきた。それは、「大量消費が見込めない服」である。
 すぐ考えられるのは、イレギュラー体型の服だろう。オーダーでサイズを調整して作った服は、絶対に9000円では買えない。
 二つ目に、健康上の理由なんかで、着る服が限定されている場合も難しい。アトピーなどのせいで着る服の素材を選ぶ人は年々増えているし、「車椅子の人のためのおしゃれな服」なんてのも安い値段で供給されずらい。(余談だが、車椅子の人のための服は、サイドがファスナーでフルオープンになっているものが多い。コンシールファスナーが大活躍である)
 三つ目は、流行に興味がなくて、「私が好きなのはこれ」っていうのが、固く固く決まっている人。こういう人は、既製服の海のなかで、自分が好きな服を探して歩くのが大変だ。疲れてしまう。例の時給に換算すると、脚を棒にして歩き回った時間が衣服費にかかってくるので、既製服の服代が大変なことになる。好きな布を供給してくれる場所が見つかれば(←もっともこれもなかなか大変なんだけど)、作った服の方が安くなる。体力も消耗しない。

 私は、上の条件のうち、一つ目と三つ目はバッチリ当てはまり、二つ目は半分くらい当てはまる。では、私が作ってきた服と、既製服ではどっちが安いだろうか。
 過去のことを考えるなら、まあ「とんとん」ではないかと思う。
 当初は安上がりにするつもりであったのだが、ミシンを吟味し、布を吟味し、パターンを吟味し、学校を吟味し、店を吟味し、そんなことやってたら、4年もたってしまった。けっこうな手間のかけ方だ。その頃は、自分の衣服に対する自己認知が間違っていた。服なぞどうでもいい人間になりたいと思っていたのだが、結局おしゃれは捨てられなかったのだ。
 ただ、その頃、私の市場的価値は、とてつもなく低かったので、人件費を安く押さえることができた。何しろ、その頃私は病人だったから。
 そう、市場価値が低いっていうと身もフタもない書き方だけど、市場価値の低い人間には、市場価値の低い人間なりの楽しみがあったのだ。この4年間は、それと正面から取り組める4年間だった。
 
 私の市場価値は、たぶん、4年前より上がっている(わずかだけど)。だけど、たぶんこれからも、私の作る服は、既製服より安いと思う。
 今、私の押入には、「これだったら一生好き」みたいな布が、何枚も眠っている。本当にあちこち探し回って、こつこつと集めたものだ。ブルーと白のストライプなんて、19歳から同じ柄のを着続けて、今度作ると実に4代目になるというシロモノだ。オクスフォードも厚さや色違いで何枚か揃えてあるし、シャツに関していえば、もう20年ぐらい買い物しなくてよさそうだ。
 パターンも、納得できるシャツを1枚だけ、早く縫えるように縫い代なしの衿パターン(これを使って印をつけると、衿作りは完璧にできる)や紙定規(『工夫されたあきの縫い方』参照)も作ってあるから、手間がかからない。時給は上がったけど、労働時間が少ない。

 さて、経済的な話はここで終わりにして、今まで脇に置いておいた、精神的な話にもふれたい。
 この四年間で自分がすごく変わったと思うのは、服を作ることに、「自分の自己評価をあげるため」という目的をあまり置かなくなったことだ。かつてはものすご〜〜く置いていた。かつては、「この服、私が作ったのよ」と一言言わずにはいられなかった。よくできた服であってもそうでなくても。
 だけど、最近は、あまりいわなくなった。なんかもう、どうでもよくなってきたのだ。服を通して何かを取り戻したいと思っていたのが、まったく別のところから、それは取り戻されてしまった。他人を通して自己存在をいちいち確認することに飽きてしまった。そして、服作りに対する追求心が、薄れてきた。喪服を自分で作らずオーダーしてしまったのも、そのせいだと思う。もしかしたら、これぐらいでちょうどいいのかもしれない。

 なにか、どこかに達してしまった気がする。ここは「ゴール」なのだろうか。
(02.5.6)    

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